So-net無料ブログ作成
検索選択

追、白河 [輪行]

輪行の際、時間が足りずに取りこぼした白河の関跡を後日拾ってまいりました。この輪行を計画する以前、多くの歌人に詠まれた歌枕の地白河の関はてっきり奥州街道上に存在するものと思っていましたが、実際には地図上で東に約5kmの地点にあります。奥州道中ではなく、東山道(関街道)と往時は言われていたようです。

shirakawa1.jpg


白河の関は、江戸時代のいわゆる「入り鉄砲に出女」を取り締まる関とは少々異なっています。この関の主要目的は、移動往来管理というより、北方の蝦夷(北海道だけでなく、日本の東北方の異族視されていた人々のこと)の南下に備えた砦という性質のものであったようです。蝦夷は他に毛人(読み方はエミシもしくはエビス)と当初言われていましたから、関の境界砦の意味するところは、現代の私たちには想像を絶するものがあります。
その関は時代が進み、大和朝廷による東北制圧がなされると砦機能は失われてゆき、やがて江戸幕府が五街道を整備したときには、すでに奥州道中は白坂越えのルートが一般的になっており、忘れ去られていたということです。

shirakawa2.jpg


奥州道中輪行巡りで参考にした「奥州街道 無明舎出版編」によれば、この関のについて以下の記述があります。
この古代・白河関の場所は、江戸期にはすでに忘れ去られて久しかった。元禄二年(1689)に奥州街道で白坂の手前まで来た「奥の細道」行脚の芭蕉も、旗宿周辺に足を運んで古関の跡を探し求めたことが随行者、曽良の日記に記されているが、これが近世に入って古代・白河関に言及した最初の記録といわれる。」
浅学な自分が思うのですが、芭蕉も奥の細道の冒頭で「白河の関こえん」として奥州道中を進み、境の明神通過の後に東進していますから、もしかすると自分と同じようにこの地にて気がついたのかも・・・などと、こころ温まる空想をしています。

shirakawa3.jpg


さらに約100年後の江戸末期に白河藩主松平定信が古関の地を考証の結果、現在の位置に「古関蹟碑」を建立するにいたり、この地が往古の白河の関とすることが現代の一般的な認識となりました。しかしなお、諸説議論もあります。

shirakawa4.jpg


追、白川駅の南に白河城(小峰城)があります。戊辰戦争で焼失してしまって、現存する遺構は壮大な石垣郡と堀の一部ですが、平成三年に三層三階の三重櫓が復元されました。こうした場合、多くの土地にある○○城は鉄筋コンクリートで内部に資料などの展示があるものですが、小峰城の場合、当時と同じ材料で同じ図面がら起こしたという完全復元ということでした。

shirakawa5.jpg

奥州道中 続、大田原から白河まで [輪行]

平成20年10月10日 晴れ 奥州道中 宇都宮~大田原 その2

ousyuu35.jpg


丁子屋の旨いウナギで腹ごしらえもすかりできました。さて、いわし雲に誘われて漂泊の旅の続きを始めましょう。

ousyuu34.jpg


map9.jpgさて、本陣についてもう一度考えることから始めましょう。実は丁子屋のご主人に聞いたところでは、先の石の美術館のところではないかということですが、私は丁子屋の向かえが怪しいと思っているのです。理由は写真中央の「明治天皇行在所の碑」と書かれた石柱です。本陣は宿場の中に数ある旅籠の中で、大名や役人など高位の人を迎える施設。天皇の行幸で立ち寄るのは必ず本陣であるはずです。
もっとも、この碑が移動してきたと言うことになると話はべつなのですが・・・。

ousyuu36.jpg


本陣があった場所かもしれない石の美術館。田舎の小さな町には驚くほどモダンな施設です。

ousyuu38.jpg


宿場の西側、田んぼの真ん中にあるのが遊行柳です。一遍上人(時宗の開祖、踊り念仏が有名)が使い古した杖を土に挿したものが芽吹いたといいます。「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑があります。この柳がここの柳です。また、奥の細道でここを訪れた芭蕉はここで、「田一枚植て立去る柳かな」を詠みこの歌碑もあります。さらに「柳散清水涸石処々(柳散り清水かれ石ところどころ)」という蕪村の歌碑もあります。何気ない田んぼの中の柳ですが、驚くほどの歴史を背負っていました。

ousyuu40.jpg


さて道中に戻ります。このあとコースは国道294号線と重なったり離れたりしながら北へ進むことになります。この石はべこ石といい、芦野の学者戸村忠怨(ちゅうおんと読むのでしょうか?それにしても凄い名前です)が道徳について書いた文章が石面に3500文字彫られています。手前の枯れ木は切ったほうがよろしいのではないでしょうか・・・

ousyuu41.jpg


ousyuu42.jpg


ousyuu43.jpg


map10.jpg道路が掘り下げられて切り通しのようになっていますが、この両側の丘の上に一里塚(板屋の一里塚、江戸より44番目)があります。また、丘のすぐ手前、左側に諭農の碑という先ほどのべこ石と同じ時に同じ作者による碑があります。

ousyuu44.jpg


ousyuu45.jpg


ousyuu46.jpg


map11.jpg高瀬の集落の付近でこんな悩ましい看板を発見しました。少しだけ入ってみましたが、人の家の裏庭を行くような道。それも案内があったのは入口だけです。どこぞの犬に吠えられる前に退散いたしました。

ousyuu47.jpg


味わいのある道を北進してゆきます。

ousyuu48.jpg


馬頭観音や石仏、たぶんお墓だと思われる石柱が数多く残っています。初めのうちは何か発見があるのではと丁寧に読んだりしていましたが、あまりの数の多さにだんだんとばしてゆくようになります(笑)。
このあたりの道中でよく見かけるようになるのは坐像のお地蔵さまです。ここまで風化していますと、本来お地蔵さまとして作られたものかも判別できないのですが・・・。

ousyuu49.jpg


寄居本郷付近で国道を左に別れるところ。たぶん学校の跡地だとおもうのですが、久しぶりに金次郎さんにお会いしました。

ousyuu51.jpg


map12.jpg再び国道294号線に戻ってすぐ。左側のタイヤチェーン装着場の中に関東最北の一里塚(泉田の一里塚)があります。

ousyuu52.jpg


ousyuu53.jpg


いったいいつからこの場所で旅人を見守ってきたのでしょう。

ousyuu54.jpg


map13.jpgころは瓢石と書いて「ふくべいし」と読むそうです。箱根霊験躄仇討(はこでれいげんいざりのあだうち)という浄瑠璃があり、その主人公がここの東の棚倉藩士。箱根(神奈川)には初花の滝や鎖雲寺にある2人の墓などがありますが、こここにも何か痕跡があるということなのでしょうか。

ousyuu56.jpg


やがて境明神峠に到着します。

ousyuu57.jpg


map14.jpgここは下野と陸奥の国境です。現在も栃木県と福島県の県境でもあります。県境はこのちょうど丘の頂上で、それを挟んで栃木側に玉津島神社、福島側に住吉神社が並んで建っています。
自分は当初、この地点が「白河の関」と呼ばれている処だと考えていましたが、実際はここより東の6kmの山中、県道76号線にあるのです。このことは旧旧奥州道中はさらに東のルートを辿っていたことになります。
白河藩主松平定信建立の領界石

ousyuu58.jpg


境明神峠を少し下るとすぐ、弘法大師衣がえの清水。近くに一里塚があるとのことでしたが確認できませんでした。

ousyuu59.jpg


白坂宿入口に建つ大垣藩士の墓碑。戊辰戦争の戦没者のもの。

ousyuu60.jpg


白坂宿の町並み。往時の面影はまったく消滅してしまっています。

ousyuu62.jpg


map15.jpg白坂宿をでて、しばらく行った左側に小さな神社があります。吉次八幡といい、そこから西に300mほど入ったところに金売吉次の墓があります。吉次は奥州の金を京都で商いする商人で、京都鞍馬山に幽閉されていた源義経を平泉に逃走させたという伝説の人物。この地で群族に襲われ殺されたとされている。石塔は3基で、中央が吉次、左が吉内、右が吉六とされています。

ousyuu63.jpg


map16.jpg新白河中央病院を過ぎたところにある題目碑です。刑場でもあったのでしょうか。近くに一里塚の案内があったのですが発見できませんでした。住所表示に一里段とあります。

ousyuu64.jpg


map17.jpgいよいよ白河市内に入ってまいります。北進していた道は風神山にさえぎられて右折。右に迂回して市内に入ってゆきますが、この右折交差点の道路右側に会津藩士戦死墓と松平容保筆の鎮魂碑。道路を挟んだ向かえに長州大垣藩戦士六君墓があります。

ousyuu65.jpg


閑散とした白河宿の町。

ousyuu66.jpg


map18.jpg道中の南に寺町があり、そこの妙関寺の林利左衛門の墓を訪ねましたが案内板もなく、寺院の方に偶然であう好機もなく(わざわざ玄関で呼びつけて案内していただくのも気がひけますので・・・)確認できませんでした。林さんは江戸時代にあって151歳の長寿を生きた方。
皇徳寺で民謡「会津磐梯山」の囃し言葉にでてくる小原庄助さんの墓に行きました。戒名は米汁呑了信士で墓碑に掘られた辞世は「朝によし昼はなおよし晩もよし 飯前飯後その間もよし」。お銚子に徳利を伏せたお墓は、思う存分飲みきったということでしょうか。

ousyuu69.jpg


白河の街を出て東北本線をくぐり阿武隈川を渡ります。

ousyuu71.jpg


やがて女石交差点につきますが、その手前の100mほど手前に仙台藩士戊辰戦没之碑があります。

ousyuu70.jpg


この碑の前のY字交差点が奥州道中の正式な終点です。
自分も実は驚きました。このY字交差点を左にゆくのが会津越後道。右に行くのは仙台松前道。江戸幕府道中奉行が管轄した五街道奥州道中はこの追分までです。

ousyuu73.jpg


本日、何よりも憂鬱だったのは白河駅、新白河駅付近に公共浴場を見つけることが出来なかったことです。実は市役所にも問い合わせましたが、日帰り温泉はかなり遠いということでした。
風呂やシャワーはなくととも、どこぞで着替えだけはしたいものだと新白河に向かっていますと、マンガ喫茶の看板が・・・。受付で聞いてみますと500円でシャワー可ということです。渡りに船とはこのことです。それにしても初めて入ってみましたが、いろんなものが完備した施設なんですね(笑)。

奥州道中 大田原から白河まで [輪行]

平成20年10月10日 晴れ 奥州道中 宇都宮~大田原 

ousyuu01.jpg


10月の秋晴れの日。陽は傾いものの、斜めに射す日差しにはまだ残暑の熱りを感じます。それでも時おり、山からの頬にあたるあたる風は、季節の移ろいを感じるこの日です。
東京発0616のやまびこ201号仙台行が那須塩原駅に到着するのは0728。学生で込合うローカル線を1駅もどり、前回ドロップアウトした西那須野駅で自転車を組み立てます。西那須野駅から黒羽街道を東に4km。大田原、金燈籠交差点着はちょうど0800でした。

ousyuu02.jpg


map1.jpg大田原宿は宿場というより城下町です。この金燈籠の交差点も東西の道が少々ずれて交差する変則的なもので、こうした仕掛けは、軍隊の行軍の邪魔をする枡形同様の軍事目的であると思われます。徳川家康は北方の上杉の抑えとしてこの大田原を重視し改修を命じ、家光の代では非常米の備蓄を命じるとともに、大砲13挺を与えたとなっています。

ousyuu03.jpg


さて、道中巡りを開始します。道を北進してすぐ左手にある江戸時代から続く呉服店那須屋の先を左に曲がります。

ousyuu04.jpg


細い旧道をゆき左手に竜泉寺が見えたところから、その北側の丘にある光真寺大田原城主歴代の墓を訪ねました。光真寺は幼稚園が併設されており、この日は運動会だったらしく境内は準備が完了している状態でした。
歴代の墓所は門を入って、運動会のトラックを横切った右奥。写真を撮影していると、なにか慌てたような先生方が1人2人と飛び出してきました。最終的に園舎から出てこられた先生は7人ほど。なぜ飛び出した来られたかはすぐに分かります。こんな時代です。余計な気を使わせてしまって・・・。申し訳なく存じます。

ousyuu05.jpg


道中に戻り、さらに枡形の道が国道に戻ったところから、消防署の横を大田原城址に上ってみます。平坦な土地にまるで桶を置いたような驚くほど高い土塁です。

ousyuu06.jpg


さて、道中に戻ります。蛇尾川を渡り、一つめの信号を左折。空の開けた緩やかで長閑な道を北進します。

ousyuu07.jpg


セブンイレブンの前のこの土盛りが一里塚跡です。

ousyuu08.jpg


map2.jpg刑務所などの看板に埋もれそうな植込みの中にあるのが1694建立とある道標などです。南無阿弥陀仏とある石塔とともに、「右たなくら」「左しらかわ」と書かれており、ここが追分であることもわかります。参考書「奥州街道」によれば「寛永六年(1629)、「紫衣事件」で上山と棚倉に流されることになった沢庵と玉室は、この追分で別れを告げた」とあります。

ousyuu09.jpg


市の天然記念物、樹齢400年の高野槇。

ousyuu10.jpg


map3.jpgmap4.jpg



ousyuu11.jpg


この手前の屋根が付いたのもが永代常夜灯といい、その側面に「右奥州街道 左原方那須湯道」とありますので、ここも往時は那須湯本への追分だったのです。

ousyuu12.jpg


ousyuu13.jpg


map5.jpg参考書「今昔三道中独案内」に、この野間について奥の細道に同行した曽良の日記を紹介しています。「(黒羽町余瀬から馬で奥州道中にでたが)馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」とあるところで、このあと芭蕉と曽良は那須町の高久に向かったのである。
日光道中、奥州道中を巡るにあたって、同時に「奥の細道」への移行も考えていましたが、芭蕉のルートは時々道中に交差するものの、かなりジグザグと外れているようです。

ousyuu14.jpg


八幡太郎義家の愛馬の蹄跡が刻まれたとされる石がある、桶沢神社。義家とは、鎌倉幕府を開いた頼朝や、その弟の義経のひいじいちゃんの父ということになるそうです。

ousyuu15.jpg


ここの階段を上がると、江戸より41番目の一里塚があります。案内板にによれば、平成6年3月にここより11m東にあったものを工事のために移動したものとあります。

ousyuu16.jpg


map6.jpg鍋掛宿入口。




ousyuu17.jpg


「野をよこに馬ひきむけよほととぎす」という芭蕉の句碑のある公園を過ぎると、旧街道は右の細い道をゆきます。50mほどで突き当り左折。もとの道にもどりますが、この三角地帯に本陣があったそうです。いまは何もありません。

ousyuu18.jpg


さて、もとの車道にもどった旧街道は道を横切り、那珂川のほうへくだり川下に100mほど下った所に渡しがあったようですが、「私有地〇〇〇〇な」(風化のため解読不能)というおそらく「入るな」の看板があります。街道巡りの旅は鉄橋を渡って、100mほど下流に戻ったところから始めることになります。

ousyuu19.jpg


川を渡るとすぐに、本日2番目の宿場「越堀宿」です。

ousyuu20.jpg


おそらくこの食堂が本陣のあった場所です。

ousyuu21.jpg


食道から200mほど進んだ右手に浄泉寺があり、境内には境界石という石柱(市指定史跡)があります。表には「従是川中東黒羽領」とあり、この那珂川より北側が黒羽藩の所領地だったことを示すものです。もともと川原にあったものを保存の為にこちらに移動してきたということです。

ousyuu22.jpg


さて北進を続けます。緩い上りを1kmほど進むと写真の富士見峠に着きます。おそらく道路舗装の際に掘り下げられたためでしょう。この周りの丘に登れば見えたのでしょうか?丘の上も林に囲まれているようですので見えないと思うのですが、往時は見えたのでしょう。ちなみに、富士山が見える北限は、ここから北東に85kmほど行った、福島県二本松市の日山(1054m)山頂なのだそうです。

ousyuu23.jpg


map7.jpg峠から下ったところに寺子一里塚公園があり、一里塚があります。公園内には富士見峠にあったとされる馬頭観音の石柱もあります。

ousyuu24.jpg


余笹川を寺子橋で渡って石田坂を登る手前にあった石柱群。

ousyuu25.jpg


石田坂を登りきって、気持ちよく下った黒川の手前で旧道は右に入ってゆき、黒川に突き当たります。

ousyuu26.jpg


map8.jpg黒川を渡ると、現在の道を横切ってほぼ直進で夫婦石に向かうのが旧道ですが、道はありません。写真の対岸の林の中央。植生がちょっと違う部分があるのですが、これが旧道です。当然、現在の道で迂回してくるしかありません。

ousyuu27.jpg


夫婦石です。蛇の化身の夫婦を葬ったところ石が割れて二つになって夫婦石と呼ばれるようになりました。

ousyuu28.jpg


さらに進んで、300mほど。江戸から43番目の夫婦石一里塚です。約172kmとうことでしょう。いろいろ見てきましたので、少々記憶もあいまいになった参りましたが、奥州道中では初めての左右対の一里塚ではないでしょうか。

ousyuu29.jpg


坂道を下ってゆくと、芳野宿が見えるころ気持ちよく視界が開けます。

ousyuu30.jpg


この交差点が宿入口。

ousyuu31.jpg


map9.jpg芳野宿の本陣というのがはっきりしません。参考書2冊ともその記述がありません。今までの経験からこの石柱のあるあたりが怪しいとおもうのですが、町の方の話ではさらに先の石の美術館のところではないだろうかということです。

ousyuu32.jpg


ousyuu33.jpg


ここは江戸初期から15代続く丁子屋という旅籠跡。旅籠の営業はしていないと思いますが、現在でも旅籠時代からの名物鰻料理を食べることができます。鰻は地元産。あっさりとして美味しい鰻でした。もっとも、鰻好きの私はなんでもかんでも鰻は旨いと思うくちですのであてにはなりませんが・・・(笑)

つづく・・・

奥州道中 続、宇都宮から大田原まで [輪行]

平成20年9月10日 晴れ 奥州道中 宇都宮~大田原 その2

ousyuu.29.jpg


セブンハンドレットゴルフ場を過ぎて道は下りになりました。喜連川宿まで気持ちよい下り走行かと思いきや、突然、山道に導く案内板が現れました。道は舗装された上に土が堆積。倒木もあります。

ousyuu.30.jpg


やがて集落が現われます。荒川に突き当たるまでの直線。往時の建物は見当たりませんが、街道の雰囲気はあります。

ousyuu.31.jpg

ousyuu.map9.jpg1748建立の道標。右江戸道 左下妻道 とあります。






ousyuu.32.jpg


荒川をわたり喜連川宿に入ります。入ってすぐのメガネ屋さんの2階に古風な建築物があります。旅籠「山田屋」です。

ousyuu.33.jpg


たぶん本陣跡です。

ousyuu.34.jpg


すこし喜連川について古昔三道中独案内を引用してみます。
この地は塩谷家が領しており、その一五代惟久(これひさ)は古河公方の流れをくむ足利家の島子と結婚していた。しかし天生十八年(1590)、家を捨てて出奔してしまったので、名門足利家の血筋の絶えるのを惜しんだ豊臣秀吉が、島子に三千八百石を与え、その弟国朝に跡を継がせた。 その時に狐川を喜連川と改め、徳川の代になると、足利氏の同族新田氏の末裔と称した徳川家康は、喜連川藩足利市を重視、知行五千石なのに十万石の格式を与え、代々左馬頭を称することを認めた。しかも、代々寄合という高い地位におき、参勤交代免除という優遇措置をとっていた。そのため、米沢の上杉候は謙信以来の旧主の末裔とあって、ここを通る時は必ず笠をとって通過したとか、連城橋の下で藩主が釣りをしていたので、伊達家の行列が橋を通れず困った話とかが伝わっている。」

血縁がどうつながっているか、えっと、えっとと考え込みますが、足利、家康、謙信に関係があるということで、往時はとても高位に位置していた藩の宿場ということでしょう。宿内には所々に古い建物もあります。

ousyuu.35.jpg


喜連川城址に上ってまいりました。図書館裏に小さなケーブルカーがあります。頂上付近が喜連川城の本丸跡ですが、空堀などもよく残っており、またスカイタワーというビルの5回相当ぐらいの高い塔が建っていて、エレベーターで昇れます。写真はそこから撮った東側喜連川宿方向のものです。

ousyuu.36.jpg


もうすぐ消滅してしまいそうな忘れ去らた感のある道標ですね。1724建立で左在郷道 右奥州街道とあるそうです。(風化著しく、私は読めませんでした)

ousyuu.37.jpg


右に連格子の古い建物がありました。

ousyuu.38.jpg


ousyuu.map10.jpg気持ちいい田舎道のサイクリングとなります。








ousyuu.39.jpg


ousyuu.map11.jpgイベントがめっきり減ります。これは明治天皇御小休御膳水碑。天皇陛下がここでお弁当を食べてお水をのまれたということでしょうか。





ousyuu.40.jpg


ousyuu.42.jpg


ousyuu.map12.jpg大田原市に入ります。






ousyuu.41.jpg


ousyuu.map13.jpgここで事件発生。まもなく佐久山宿という下り右コーナー。少々スピードも出ていましたが、後方から来た車に道を譲るべく左端に寄ったのですが、舗装が切れていて転倒してしまいました。擦り傷多数。本日卸したばかりのパンツに穴。この後の輪行は、所々出血した悲惨なすがたでとなりました。さても、ただでさえこの年齢の見知らぬおっさんが、キョロキョロと街中をウロウロしているという不審な状況なのにです。気分はすっかり落武者となりました。

ousyuu.43.jpg


ousyuu.44.jpg


佐久山宿内、市指定有形文化財不動明王像をまつるお堂。

ousyuu.45.jpg


お堂内を覗き込む落武者に警戒を強める猫。

ousyuu.46.jpg


たぶん本陣跡。今昔三道中独案内によれば、この郵便局の隣が本陣とのことでした。はたしてどっちの隣なのか・・・。
さて、佐久山宿内には薬屋が多かったのですが、これは戊辰戦争のときに官軍がこの地の傷薬の効き目を知り流行ったものだということを輪行から帰ったあと、ガイドブックを確認中に知りました。そうか・・・。あの転倒は佐久山宿が名物「運用膏」を使わせるための歓迎のイベントだったのか。気が付かずに行き過ぎてしまったこと悔やまれることしきりです。

ousyuu.47.jpg


宿をでる枡形のすぐ左。島崎酒造の建物。

ousyuu.48.jpg


箒川を渡ってこの付近は枡形があったと思われますが、今は辿ることかないません。

ousyuu.49.jpg


ousyuu.map14.jpg街道から500mほど西に入った加茂神社前。ここには県指定天然記念物「糸魚(いとよ)」生息地という場所です。棘魚の一種です。http://www.city.ono.fukui.jp/web_ono/data03/49itoyo/study/dvd/dvd.htm
付近には澄んだ小川の多い地区です。

ousyuu.50.jpg


ousyuu.51.jpg


ousyuu.map15.jpg






ousyuu.52.jpg


ousyuu.map16.jpgいよいよ本日のゴール大田原宿に入ります。宿に入ってすぐ、右手に薬師堂があります。建立は1793年。また境内には1684年の石塔七重塔や1698年の石造舎利塔などもあり、堂内の金剛力士像とともに市の重要文化財が多くあります。

ousyuu.53.jpg


大田原市街道筋の町並み。

ousyuu.54.jpg


これは本陣あとです。奥に見えるオレンジ色の屋根のお宅が往時の本陣をなさっていた印南氏の末裔のお宅です。この写真の位置のすぐ左側に案内板がありますが、当時奥州道中で最大のものであったと記載があります。察するところ、ここにあるパインズスパという健康センターとその左手の肉屋さんまでがその敷地ではなかったかと。

ousyuu.55.jpg


おそらく、本陣の昔の建物の一部?

ousyuu.57.jpg


本日、最後のイベントはこの金灯籠です。台座が道標になっています。

ousyuu.58.jpg


以上が本日の行程でした。時間はまだありましたので、もう少し進んで那須塩原駅から新幹線で帰宅というのも考えましたが、那須塩原駅付近で日帰り浴場が見つかりませんでしたので、西那須駅に向かうことにしました。乃木温泉湯の郷で着替えて列車にのることになりました。

奥州道中 宇都宮から大田原まで [輪行]

平成20年9月10日 晴れ 奥州道中 宇都宮~大田原 その1

2008.9.10.1.jpg 

東海道中、日光道中、甲州道中と走破してきた「江戸五街道走破計画」も残すところ、奥州道中と中山道中の2コースです。今回からは奥州道中を巡ることにいたします。参考文献は前回甲州道中でも利用した今井金吾著「今昔三道中独案内」と、無明舎出版編「奥州街道、歴史探訪・全宿場ガイド」の2冊です。


今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州 単行本

今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州 単行本

  • 作者: 今井 金吾
  • 出版社/メーカー: JTB
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本



奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド

奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド

  • 作者: 無明舎出版
  • 出版社/メーカー: 無明舎出版
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本



ousyuu.01.jpg江戸の日本橋を千住に向かい、ここ宇都宮までは同じ道を辿ってきます。現在の宇都宮裁判所に突当ったって右折。最初の十字路が日光街道との追分となり、今回の輪行旅の起点です。東京発0604のやまびこ41号が宇都宮駅に到着するのは0654。身支度を整え、宇都宮の大通りを西に2km。前回日光道中輪行から3年目の宇都宮の街です。

8月下旬から続いた激しい天候の毎日も、2日前に北からの移動性高気圧が日本の上空に入ってきて一段落です。日中はまだ暑さが残るものの、朝夕はかなり過ごしやすくなりました。風もなく輪行を再開するには良好なコンディションですね。

今回は自転車のギアシステムを最新型のものにすべて交換してきましたのでペダルもスムーズです。



ousyuu.map1.jpg前回の甲州道中輪行の際、知り合いから資料をアップしろと言われましたので、今回から地図を添付してみることにしました。サムネイルという自分が未使用の新技術も導入して頑張ってもおります(笑)。

宇都宮宿には当時、上野本陣石塚本陣と本陣が2つありました。上野本陣は追分の道路を挟んだ南側の3階建のアパート付近です。その裏側には往時からの大銀杏が今も生き続けています。石塚本陣は現在のみずほ銀行のところです。
みずほ銀行の手前にホテル丸冶がありますが、一見普通のビジネスホテルに見えるのですが、創業300年超の老舗ホテル。江戸時代は当然、旅籠と呼ばれていました。

道中は南側の歩道をゆくと、大手入口の案内があり、道中はその先で右折してアーケードを左折します。アーケードを抜けて2つ目の交差点で宇都宮城址に寄り道してゆくことにしました。

ousyuu.04.jpg


ガイドによれば何もない公園のようでしたが、実は堀、土塁、櫓が復元されていました。現在も復元計画は進行中のようですので、数年後に訪れた時には天守閣があったりして・・・。

ousyuu.05.jpg


往時を偲ぶものはなにも残っていない市内ですが、幸橋を渡り氏家宇都宮線の交差点のところ、東急インホテル手前に明治28年築の重要文化財「旧篠原住宅」があります。見学時間は9時~5時(月曜と祝日の翌日は休み)100円で見学も可能です。自分の通過した時刻はまだ8時前でしたので、また次の機会に訪れましょう。

ousyuu.06.jpg


朝の出勤ラッシュを横目に北を目指します。


豊郷南小学校を過ぎて次の信号を右に曲がり200mほど入ったところに白山神社があります。

ousyuu.07.jpg


ousyuu.map2.jpgこの神社の裏の丘は根来塚と呼ばれています。元和七年(1621)、宇都宮城主本多上野介(こうずけのすけ)は、幕府から差し向けられた根来組百人衆を捕縛し全員処刑。胴体をここの塚に、首を首切地蔵の丘に埋めたといわれています。実際、付近は当時の刑場だったらしく、いまだに丘を掘れば人骨がでるそうです。
首切地蔵ですが、栃木銀行の裏付近。ガイド本「古今・・・」には草深い小丘に地蔵堂があるとあり、ガイド本「奥州街道・・・」には、栃木銀行北支店裏の「首切り地蔵尊」とあります。実際訪れてみると、そこにはマンションがあり、そばにいらした人のに教えてもらうとそのマンションの横を奥に入っていったところにお地蔵様がいらっしゃいました。ただ伝承の地蔵は、付近の「地蔵堂囲碁将棋クラブ」内に安置されているのでこの時間(8時前)では拝観かないませんでした。

ousyuu.09.jpg


松の木が一本。東海道中を思い出します。

ousyuu.map3.jpg
やがて道の車線も片側一車線の細い道に変わり、白沢宿へと入っていきます。



ousyuu.11.jpg


ousyuu.map4.jpg白沢の集落を入ってすぐ右に地蔵堂があり、のそすぐ先のこの何の変哲もない建物。実は江戸時代の共同便所というから驚きです。裏側にまわって恐る恐る中まで覗いてみましたが、別になんのことはありません。桶やらが置かれているだけでした。

ousyuu.12.jpg


ousyuu.13.jpg


いよいよ本日一つ目の、白沢宿に到着。道路の両側に用水が流れています。本陣は赤い昔ながらののポストがある「宇加地邸」のところです。昔は郵便局だったようですが、郵便局は現在、道中沿い、この宿外れ白沢小入口交差点を右折したところにあります。

ousyuu.15.jpg


ousyuu.map5.jpg水田地帯を鬼怒川に向かって走ります。鬼怒川の土手にとりついたところで「三本杉」というイベントをさがすのですが、それらしきものは発見できず。自宅でもう一度確認してみると、「三本杉」さんという名字の方がお住まいで、その方のお庭にある稲荷祠を拝見するというものでした。またいつか訪ねてみることにしましょう。

ousyuu.16.jpg

地図に載せ損ねましたが、鬼怒川を阿久津大橋で渡ってから下流に200mぐらい行ったところに川の一里塚という碑があります。

ousyuu.17.jpg

さて、この阿久津という街ですが、明治までは大変繁盛した街だったとあります。奥州諸藩の荷駄はすべてここに集められ、ここから船で下総に運ばれ、船を乗り換えて利根川→江戸川を経て江戸に運ばれていたようです。当然、帰りの船にも荷駄が乗っており、ここから奥州に運ばれてゆきます。今は水田ばかりのこの土地ですが、一帯には倉庫が立ち並んでいたというのです。写真は往時を偲ぶ唯一の船魂神社。社殿は1783年建立で、社殿前の燈籠の台座には道標が刻まれています。

ousyuu.map6.jpgさて、奥州道中にもどります。県道を少しゆくと緩やかな上り坂があります。上りきった右手のうっそうとした神社は将軍地蔵、別名そうめん地蔵を祀るお堂です(地図には記載漏れ)。もとは将軍山地蔵院満願寺といったそうですが、満願寺のお坊さんが日光の修験者にそうめん責めにあいましたが、将軍地蔵が現れて日光中のそうめんを食べつくして返り討ちにしたという伝説の地蔵さまです。

ousyuu.19.jpg


道をすすむと、本来右斜めに向かうのが本来の道ですが、moonstarの工場となっていて入れませんので、先を右に迂回して道中にもどります。

ousyuu.20.jpg


東北本線の踏切を渡ります。

ousyuu.21.jpg


ousyuu.map7.jpg県道に突き当たったところに道標があります。右江戸道、左、水戸、かさま、下たて、下つまとあります。傍らには1838年建立の馬頭観音もあります。道を左折して本日2つ目の氏家宿へ入ってゆきます。


ousyuu.25.jpg


氏家の交差点を過ぎて左側、3件目の平石歯科はもの本陣だったところです。道中は上町交差点を左折して東に向かいます。

ousyuu.27.1.jpg

少し進むと立派な板塀と長屋門のもつお屋敷があります。滝澤家住宅
明治のころ紡績で財をなしたお宅で、明治20年ごろの建築。内部の公開もあるようですがこの日は休館日とのことでした。

ousyuu.map8.jpgやがて道は国道と合流。田園地帯を東に向って走ります。道中を進むと田園地帯にポツポツとある民家の一つ、「坂本家」の塀の内側に一里塚跡があります。今は木が立っているわけではなく、塚の上に祠があるだけです。案内板によれば日本橋から32里目とあります。


ousyuu.27.jpg


国道はこの先、右に大きくカーブしているのですが道中は直進。セブンハンドレットゴルフ場の方向へ坂道を登ってゆくのです。

ousyuu.28.jpg


つづく


甲州街道7日目、教来石~下諏訪 [輪行]

9月18日、甲州街道7日目、国界橋より

朝東京を出発して小淵沢に最速で到着するには、ローカル線を約3時間乗り継いで0801着の長丁場。自転車を組立てていよいよスタートというころにはすでに困憊ぎみ(笑)。唯一の救いは、前回45分かけて登った長~い上りを快適に下っていけることが今日のスタートだということ。

国界交差点上
天候は晴れ時どき曇りという感じ。予報では山梨地方はまだ34℃まで上がるそうだが、それにしても雲は秋の高さだ。

国界の交差点すぐ、日蓮上人高座石というのが本日の第一イベント。公民館の裏手の石の上に腰を下ろして説法をしたと言うことらしい。急な坂を自転車を押して上り、真福寺の前を左に曲がる。畑の中の長閑な道をゆくと応安の古碑という石碑群に出会う。

 

長閑な田舎道。

蔦木宿

桝形という街道にわざとクランクを付けて兵馬の進軍を遅らせる道が南北の宿端に辛うじて残っている。

本陣跡。

振り返ると富士山が・・・。あまり振り返らず前進してきたので気がつかなかったが時折姿を見せていたのだろうか・・・

国道に一里塚の何かがあったはずだが何も発見できなかった。明治天皇小休止の碑があった。

瀬沢の町。

江戸より49番目の一里塚跡

一里塚を越えてすぐ、塚平というところで甲州道中が無くなる。道中はこの草原を直進していたはず。

前沢付近の石碑群。

御射山神戸付近、現存一里塚。ここでは塚が道路の左右にあり、左の塚は往時のものなのだそうだ。

金沢宿

連格子の家も所々に見える。交差点の先、金鶏の湯の看板のところが本陣跡問屋場跡刑場跡道標などがあるはずだったが確認できなかった。宿の終わりの桝形は国道の右手のみ確認できた。

一里塚跡

道中は木船あたりで右の畑のほうへ降りてゆく。

道中巡りはこのような道を行くときが至福のときだと感じる。ありがたいことに緩い下り坂。

JR中央本線で旧道が消失している。この辺を真直ぐ進むのが本来の道であるらしい。

そろそろ諏訪湖が見えるのか・・・

茅野駅へ向って行く。

20号線を少し走り、道中は東方向からくる大門道

一里塚跡

上諏訪宿

造り酒屋を数件見かける。ちょこっと寄って行きたいところだが、気温も高くすぐに効いてしまう。残すところ4kmほどなのだ。我慢我慢。

さて写真左に見えるガラス張りのビルが元の本陣跡

少寄り道高島城跡。天守閣に上って景色を見ようと思っていたが、団体バス旅行客が行列をしていたので断念。

いよいよ最終区間。

建物の間からチラチラと諏訪湖が見え始める。昔はこんなに家が建て込んでなかったはずだから湖を見下ろしながら幸せな行程だったであろう。

藁葺き屋根のお寺。

実は最近、自分のコンピューターにインストールされているソフトでこんなことができることを知りました(笑)。写真を選びそのソフトにかけるとあら不思議。ソフトが勝手に高さ調節どころかつなぎ目に微妙なぼかしまで入れてくれる念のいりようでパノラマ写真を作ってくれます。ちょっと癖になりそう。諏訪湖北岸、富ヶ丘付近から諏訪湖をみる。

そして最後の一里塚跡

諏訪大社下社

そしてゴールの諏訪宿本陣前。本当の本陣は亀屋ホテルの場所であるのだが、こちらの本陣(往時の脇本陣)ほうが風情があるので写真はこちらを載せた。

これで江戸五街道のうち東海道、日光街道、甲州街道の3街道の走破が完了。近くに児温泉という日帰り温泉がありひと風呂浴びて帰路につくことにした。

 


甲州街道6日目、勝沼~教来石 [輪行]

9月4日、甲州道中6日目

前回の勝沼着より約3ヶ月もたっていた。最近、歳をとったせいか歳月の過ぎてゆくことの早いこと。あの時にはまだ米粒ほどだったブドウはすっかり収穫の季節になっていた。

杉並の拙宅から勝沼まで、ローカル線を乗り継いで約2時間、6時47分着が最も早い。駅前より前回のゴール、日帰り温泉のあったブドウの丘をのぞむ。

勝沼宿
宿の入口上行寺のところから甲州道中に入ってゆく。ところどころ連格子の建物もあるのだが本陣や問屋は不明。道中を進んで左手、土蔵の裏手の畑に本日最初のイベント日蓮大菩薩御一宿の碑を発見。

勝沼小学校前に沢山の石碑があった。その中に明治天皇勝沼行在所の碑というものがあった。と言うことはここが本陣?いやいや、他にも数点碑があったということは、この付近の区画整理の際や持ち主の建て替えの際にここに移動したものかもしれない。

栗原宿

道を急ぐ

栗原宿をでて一町田中で左折。笛吹川にでる。この川は江戸時代には単なる小川だったそうだ。旧道中はちょうど自転車のある部分から対岸に渡河。現在は川幅もあり北側の日川橋を渡ることになる。天候が回復してきた。 

甲州道中はいったん笛吹川を南に渡るが、このあたりで斜め右方向にもう一度北側に戻ることになる。この先の笛吹橋を渡る。

石和宿
石和宿に入ってすぐの右側、遠妙寺。謡曲「鵜飼」で知られた寺だそうだ。殺生禁止の石和川で鵜飼をした勘作が捕らわれて川に沈められ以来亡霊となって苦しんでいたのを日蓮上人が法力で成仏させたというもの。ここまで簡素に書くとまったく味わいのない話となってしまう。(笑)

町は電線も地中に埋めて道路も歩道がひろくこざっぱりとしている。驚くのは市中に数箇所見かけた観光案内版は、その前を通ると話しかけてくる(笑)。しかし柵のむこうの本陣跡の扱いはいただけない。

町はずれ駐車場の入口に青梅街道への道標がある。

山梨学院大学の少し手前、刑場跡お題目の碑

甲府柳町宿
風林火山の時代、甲府は中央線の北側にある躑躅ヶ崎を中心に栄えた町だが、その後徳川時代には甲府駅南の舞鶴公園付近に城が建てられ道中も南側を通るようになった。写真の地点は昔木戸があった場所だと思われる。

道中を少し離れて、舞鶴公園城跡                                                 この城は武田家滅亡ののち、徳川家康によって現在の地に起工されたものだという。武田信玄のいた躑躅ヶ崎居館や所縁の寺などは駅の北側に点在する。今回は時間不足のため次回別テーマの輪行のときに訪れよう。

お約束、駅前信玄銅像

道中に戻る。旧町名甲州柳町は相生歩道橋交差点付近だと思われるが、道路の工事等の区画整理でまったく面影はない。荒川橋を渡って先を急ぐ。

中央本線竜王駅の南から信玄堤を見るためにコースを外れる。

これが信玄堤。うーん、コースを外れてそれほど見るべきものだったのか・・・(笑)

三軒茶屋付近、23夜塔の跡。

住宅街のなかの交差点。市川駿河道との追分の道標

国道20号線にでてすぐ、大きな岩があった。泣岩という。案内文全文を記す。

「泣石
下今井字嶋石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、巾約2.7m、奥行約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈がたたれてしまった。
天正10年(1582)三月二日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ち延びて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言伝えがある。
甲府市教育委員会」

甲信越の長閑な風情だ。しかし、ほぼ快晴で猛烈に暑い。

南アルプスの鳳凰山か甲斐駒ケ岳だろう。

この数メートル右手奥に蛍塚がある。

旧塩川橋はこの橋の左手にあった。

韮崎宿                                                   

本陣跡。

北西に釜無川沿いに28km続く奇岩七里岩の南端。

桐沢橋釜無川を渡り、道中は西岸を諏訪へ向う。

カカシが大変なことになっている。

せっかくの甲州道中であるのに、武田信玄年代の所縁地や史跡を訪れそこねている。特に本日の区間、石和から教来石にも数多くあったのだが、いかんせんそういったイベントが街道から少々離れている。いや距離はさほどでもないものも、山の上だったりする。ここでも現在の大河ドラマの主人公「山本勘助の供養塔」が道中を西に外れた宗泉院にあると調べてあったのだが、正確な場所を地元の酒屋さんにで訪ねると「車なら10分なんだけどね~。自転車じゃね~。なにしろあの山の上だから。」といった具合。ここでも断念せざるを得ない。 

国見坂手前、一里塚跡

台ヶ原宿

久しぶりに出会った観光チックな道中の看板。

本陣跡の標柱。

七賢酒造店。

一里塚跡の碑

教来石宿

本陣跡

山口番所跡

国界橋付近、本日始めて未舗装路へ突入。しかし・・・

橋を渡ったところで電流柵で通行禁止(笑)。結局、この道を戻り新国界橋を渡って迂回することになる。

本日の終点、国界交差点。

小渕沢道の駅併設の日帰り温泉でひと汗ながして本日の輪行終了。帰りのスーパーあずさが以外に混んでいるのには驚いた。それにしても、本日は後ろ髪引かれながら通りすぎた史跡が多いことに後悔がのこる。甲州道中輪行終了の後、別企画で訪れることにしようと思う。