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中山道 第一日 日本橋~ [輪行 中山道の巻]

平成二十一年四月十二日 中山道 日本橋~

昨年、江戸幕府道中奉行管轄五街道のうち自信四番目となる奥州街道(宇都宮~白河)を走破しました。いよいよこの春から、最後にして最長、最難関の中山道をスタートいたします。走行距離は532kmで69宿。6年前に走った東海道が492km53宿だったのでそれより長い上に、上信越と飛騨の山間部を行きますからペースも落ちるでしょう。見積もりでは14日ぐらいと思っているのですがどうなるでしょうか?

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午前7時30分。天候曇り。五街道巡りの輪行では4度目の「日本橋」です。写真は橋の北西角にある「日本国道路元標」のレプリカのあるモニュメント。南西ある「日本橋記念碑」北東にある「魚河岸記念碑」そして橋の中央、道路の真中にある「日本国道路原標」を確認して、中山道を出発します。

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三井越後屋呉服店本店

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北側の入口に古風な暖簾(のれん)。

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日光奥州街道の追分付近。十軒店跡の看板。
十軒店跡(じっけんだなあと) 所在地 中央区日本橋室町三 ― 二 ― 一五  十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。「寛永江戸図」に「十間たな」と記された、石町(こくちょう)二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午(たんご)の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。 江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市(せいぼいち)には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓(はまゆみ)・手鞠・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。 「江戸名所図会」には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁盛している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(一九一一)に十軒店町となり、昭和七年(一九三二)、旧日本橋室町三丁目に編入されました 平成十年三月 中央区教育委員会十軒店

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神田駅北側ガードを潜って、須田町交差点手前から直進。再び中央線突き当たったあたりは旧交通博物館の赤れんがです。ここに「御成道」の看板がありました。
御府内備考」に”御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至るの道をいう”とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流五十メートルの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれています。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。 江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅(だいだいもち)で売出した有名な店もありました。 昭和五十一年三月  千代田区

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道中は次の信号を左折、昌平橋を渡って昌平橋交差点を左折。次の外神田2丁目交差点を右折して17号線に入っていきます。旧道中はさらに100メートル進んで右折。鳥居をくぐって神田明神に向かいます。

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旧中山道中は神田明神に突き当たって左折、現在のホテルガーデンパレス付近で17号線と合流しているのですが、道は消失しています。17号を進むやがて春日通りと交差する本郷3丁目交差点では、左手前に「かねやす」ビル。川柳に「本郷もかねやすまでは江戸のうち」とあるらしい。つまり、この辺りまでは江戸の町屋が続いていたということのようです。交差点を右折して2軒目に「江戸銘菓 藤むら 羊羹 創業寛永三年」と書かれた紫色の看板があります。もともと金沢にあったお店が宝暦年間にこちらに移動してきたようです。

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先を急ぎます。やがて東大の赤門前。もともと加賀藩前田家の上屋敷。

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言問通りの次の交差点、東大農学部正門前の三叉路は本郷追分と言われたところです。直進は日光御成街道で中山道中は左折します。この角にある高崎屋酒店は宝暦年間開業。建物は明治五年築。建物のすぐ横に、日本橋から一つ目の一里塚跡の看板があります。

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道を進み白山一丁目の交差点を左折して坂を50mほど下ると、右手に天台宗円乗寺があり、入口に「八百屋於七地蔵尊」があり、お寺お堂の前にお七お墓があります。
八百屋お七の墓  文京区白山1-34-6 お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年(1682)12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。 ―郷土愛をはぐくむ文化財―文京区教育委員会 平成14年3月

さて、道中にもどり白山の街を巣鴨に向って走り出します。
東洋大学を超えて旧白山通りが白山通りに合流する手前、前方の車が発進の気配(ウインカーを点けて待っていました)がありましたので、歩道に上がって避けようとした直後、段差につまづいて大転倒(笑)。鼻血まで出てしまって血まみれ。激流血で輪行停止。中山道第一日目は1時間半5.5kmで終了となってしまいました。前途多難?





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